聚山坊禅散策 第1回

日々の暮らしの中で、現代人は仕事に、生活に追われとても、忙しい日々を送っています。各言う私も、毎日の壇務におわれ、落ち着いて見つめなおす時間が少ないのが現状です。一般の皆様は『禅』と聞くと、座禅を連想するのではないでしょうか。

何かしら、難しいイメージを持つのではないでしょうか。前にNHKで21世紀仏教のたびという作家五木寛之さんの全5回の放送の中でキリスト教が主流のヨーロッパに伝わった仏教が、若者や多くの人たちに親しまれ、若者の間で、『禅でいこう』という言葉、いや考え方が広まりつつあると、紹介されていました。禅ZENという言葉の響きがかっこいいとか、禅という言葉が若者に流行っていると紹介されていました。そこでは『禅』は『ゆっくりといこう』とか今一度考えて、あせらずにやろういう意味で捉えられていました。私の考える『禅』とは、一言で表せば、物事の本質を見極めること、それは自分の心の内だったり、行う行動の本質だったり、森羅万象の出来事を今一度見つめなおすことと捕らえています。行住(ぎょうじゅう)座臥(ざが)すべてが『禅』の修業となります。道元禅師は中国で仏教を学び、禅を修得して日本に帰国しました。そのときの京都について大衆に示した、最初の言葉が、「目は横に鼻は縦についているのがほんとうにわかった、だから経典も何も持たずに手ぶらで帰ってきた」といわれました。「眼(がん)横(おう)鼻(び)直(ちょく)」です。当たり前のことをありがたいと感じる心のあり方、または、實性を見極めることこそが仏の教えであるということなのでしょう。眼は横に、鼻がたてについているということは、あたりまえのことです。

10年の修行の成果が すばらしい経典でもなく、また誰もが想像もしないような新しい教えでもなく、だれでもしっている眼は横に、鼻がたてについているということだったのですから。でも道元禅師はそのあたりまえのことに、そのありがたさに気がつくことのむずかしさがわかったのです。
禅と座禅は意味合いが少し違います。座禅は悟りを会得するための方法のひとつであると思っています。宗門では座禅は安心(あんじん)を得る唯一の方法になります。禅を体得した諸老師方や祖師方からお叱りを受けるかもしれませんが、ヨーロッパで言う『禅でいこう』ゆっくりというのも、今一度物事の本質を考えてみる事、自分を見つめなおすこと、という私の『禅』に対する考えに近いものと思いました。
またわたしは宗教とは人々を幸せにしなければ意味がないと思っています。現代の忙しい日々の中に追われて本来の自分や、こころを見失うことが無いように、曹洞禅にふれて今一度自分と向き合いそして本当のしあわせとこころの安らぎを得る、一瞬を与えられたらと思います。 この禅散策では長福寺住職である私をはじめ、長福寺にご縁のあるいろんな方々にお話を戴こうと思っています。近くの禅寺の話や、小話にいたるまで、いろんなお話を戴こうと思っています。ようこそ当山に足をお運びくださいました「さあお茶を召し上がれ」と、お越しになった方にお茶を差し上げて茶話をするような気楽な気持ちでお話したいと思っています。いつでも気楽にお立ち寄りください。