伽藍について

伽藍について

本堂は詳しい建立時期は不明も約築500年位たっており、開山より一度も建て替えられる事無く、移転の際も解体して移されたと伝えられています。
平成17年の文化財工学研究所の調査でこの移転の時に大掛かりな改修(虹梁などの移設、装飾)が行われていると判明いたしました。
当初は茅葺の屋根であったと考えられます。
また戊辰の戦いでは激戦の戦場となり、その跡を残したが戦火を免れました。
太平洋戦争では、焼夷弾が本堂屋根を貫きましたが不発で大きな火災にならずにすみ、周りの家々がほとんど焼失する中、当時の住職と家族が避難することなく、戦禍の中も山内にとどまり、近所の人たちの助けを借りて類火を防ぎ消失を免れました。
まさにお釈迦様のご加護と二十五世雪厳和尚が申しておりました。
旧長岡市内に於いては、これらの大きな二つの戦禍を免れた数少ない伽藍の一つになります。
しかしその焼夷弾の被害でしばらくは雨漏りが収まらず、昭和36年に屋根の瓦葺に吹き替えが行われました。
その後も被害が完全に収まらず、昭和53年にもう一度大掛かりな屋根の修復が行われて瓦葺の本堂の形になりました。
位牌堂や開山堂は曹洞宗の本堂によく見られる形態でその形成時期は不明でありますが、改宗後か移転後に行われたと考えられます。
虹梁などの装飾からは、移転後というのが文化財工学研究所の意見です。
また、中越地震で被害を受け、文化財工学研究所の設計・監修の中、社寺工舎の下で施工してもらい、修復されました。

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伽藍再建の軌跡

平成16年に起きた新潟県中越地震で当山長福寺は大変な被害を受けました。平成19年8月の再建にいたるまで、役員様や多くの檀信徒の方々、また関係業者の皆様のご協力に感謝申し上げます。
当山の本堂は、500年以上前に建てられたものを、寛永12年(1635)江戸時代初期に現地に移築したと伝えられています。その本堂が、平成16年10月23日の夕刻に発生した「新潟県中越地震」によって、大きな被害を受けてしまいました。幸いにも倒壊は免れましたが、地震後の長岡市による建造物調査では、「全壊」の判定が下されました。その後、(株)文化財工学研究所に、復旧・再生の可能性を調査していただきました。

調査の結果、建物全体に震災による歪みが発生していること、床組材・小屋組材に広範囲にわたって腐朽や虫害が進行していることなどが確認されました。これらの損朽によって、本堂は既に構造的に危険な状態に至っており、早急に適切な処置を施すことが求められました。危険な状態にあるとはいえ、柱などの軸部の損朽は比較的軽微であることから、腐朽材の交換や構造補強などによる修理を行うことで、建物の再生は可能であると判断されました。再生のためには、「建物を半解体して、虫害・腐朽のある材を補修もしくは新規材に取替え、軸部に関しては歪みの修正を行う」、「大引、束などの床組部材に認められた深刻な腐朽や虫害は、材料の交換で対応」、「床下の湿気の滞留を防ぐために、積極的な床下換気を行う」、「地盤沈下が認められることから、建物の基礎は鉄筋コンクリート製の耐圧板とし、そのうえに礎石を据え付けることで、足元をより強固にする」、「屋根は、地震に対する荷重軽減化と、多大な降雪を考慮し、表面の摩擦の小さい銅板葺に改める。また、形状は、本堂がかつて茅葺であったことから、茅葺型銅板葺とする」、「西面(背面)は葺き降ろしとし、南面の突出している位牌壇は、内部に取り込み、外壁は全体的に深い軒内に納めることで、風雨から守る」などの作業をすることとなりました。